Somnium 
─フリードリヒ・エンゲルス
Boy meets girl.
Boy loses girl.
Boy builds girl.
Jeff Renner
Time ended. Yesterday.
Roger Deeley
Cosmic Report Card --- Earth
--- F
Forrest J Ackerman
1 Living In The Science Fiction Age
 一九三八年一〇月三〇日、ハロウィン前日の日曜日の午後八時すぎ、全米一二〇万人の人々はパニックに陥る。混乱した状況の中、あるものは逃げ惑い、またあるものは電話で安否を尋ねている。ラジオが、天気予報やニューヨークのホテルのボール・ルームから中継されるラテン音楽の合間に、火星人襲来の臨時ニュースを伝えていたからだ。「只今、CBSネットワークに速報が入りました。八時二〇分前、イリノイ州シカゴ、マウント・ジェニングス天文台のファーレル教授は火星で白熱光を伴う定期的なガス爆発を観測。分析の結果、ガスは水素ガスであることが判明。光は現在、非常な速度で地球に向かっております。この件については続報が入り次第、ご報告致します(Ladies and gentlemen, we
interrupt our program of dance music to bring you a special bulletin from the
Intercontinental Radio News. At twenty minutes before eight, central time,
Professor Farrell of the Mount Jennings Observatory, Chicago, Illinois, reports
observing several explosions of incandescent gas, occurring at regular
intervals on the planet Mars. The spectroscope indicates the gas to be hydrogen
and moving towards the earth with enormous velocity.)」。「再び臨時ニュースをお伝えします。只今、ニュージャージー州トレントンよりの発表によりますと本日午後8時50分に、隕石と思われる巨大な炎に包まれた物体が、トレントンから二二マイルのグローバーズ・ミル付近の農場に落下した模様です。空の閃光は数一〇〇マイル先でも見え、轟音ははるか北のエリザバスでも聞こえました。CBSネットワークは事件の重大さを認識し、現場からの状況を中継でお伝えすることになりました。コメンテーターのカルー・フィリップと中継車が現場に到着する間、ブルックリンのホテル・マルティネットからボビー・ミレット・オーケストラの音楽をお送り致します(Now, nearer home, comes a
special bulletin from Trenton, New Jersey. It is reported that at 
 これは、二三歳のラジオ・ディレクター、オーソン・ウェルズ(Orson Welles)
が製作したH・G・ウェルズ(Herbert George Wells)原作の『宇宙戦争(The
War of the Worlds)』のラジオ・ドラマである。CBS系のラジオ局は、毎週、この時間帯に『マーキュリー劇場ラジオ・ドラマ(Mercury Theatre On The Air)』を放送していたが、前年から担当し始めた若き天才俳優はライバル番組に遠く及ばない聴取率を上げるため、『宇宙戦争』をニューヨークを舞台にした展開するニュース形式のラジオ・ドラマに仕立て上げる。「CBSネットワークが、今宵皆さまにお送りするのは、オーソン・ウェルズとマーキュリー劇場によるラジオ・ドラマ、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』です(The Columbia Broadcasting
System and its affiliated stations present Orson Welles
and the Mercury Theatre on the Air in "The
War of the Worlds" by H. G. Wells.)」というナレーションとドラマの導入部もあり、「世界の終わりか?」と問い合わせが殺到しややめ、世間の異変に気がついた局が何度も「これはドラマです」と注意を促したものの、結局、翌日の午後までパニックは続いている。むしろ、人気がなかったからこそ、この番組はパニックを引き起こしたとも言える。聴取率九〇%でトップのNBC系の番組『ザ・チェイス・アンド・サンボーン・アワー(The Chase and Sanborn Hour)』がコメディから音楽に変わったので、リスナーは他のコメディを探しに、ダイヤルを回し、ザッピングを始めたときがたまたまグローバーズ・ミルのシーンにあたっている。おまけに、フランク・リディック(Frank Readick)がレポーターのカール・フィリップス(Carl Phillips)を演じ、一九三七年五月六日に起きたヒンデンブルク号(Hindenburg)の事故に対するシカゴのWLSのハーブ・モリソン(Herbert Morrison)による歴史的実況を真似て、それを中継し、生々しい記憶を蘇らせる。この番組の脚本はhttp://members.aol.com/jeff1070/script.htmlで読むことができる。今日、アメリカでは、ニュース形式のラジオ・ドラマに厳しい規制が設けられている。
I heard you on the wireless
back in Fifty Two
Lying awake intent at tuning in
on you.
If I was young it didn't stop
you coming through.
Oh-a oh
They took the credit for your
second symphony.
Rewritten by machine on new
technology,
and now I understand the
supernova scene.
Oh-a oh
I met your children
Oh-a oh
What did you tell them?
Video killed the radio star.
Video killed the radio star.
Pictures came and broke your
heart.
Oh-a-a-a oh
And now we meet in an abandoned
studio.
We hear the playback and it
seems so long ago.
And you remember the jingles
used to go.
Oh-a oh
You were the first one.
Oh-a oh
You were the last one.
Video killed the radio star.
Video killed the radio star.
In my mind and in my car,
we can't rewind we've gone too
far
Oh-a-aho
oh,
Oh-a-aho
oh
Video killed the radio star.
Video killed the radio star.
In my mind and in my car,
We can't rewind we've gone too
far.
Pictures came and broke your
heart,
Put the blame on VCR.
You are a radio star.
You are a radio star.
Video killed the radio star.
Video killed the radio star.
(Buggles “Video Killed The Radio Star”)
 この出来事はマスメディアの危険性への警鐘と偉大な映画人をめぐるエピソードだけでなく、当時の社会に、「火星人来襲!」というSFを現実として理解しかねない雰囲気があったことを示している。SFも時代・社会の変化に敏感に反応する。現在や過去もあるけれども、多くの場合未来を舞台にするが、その著述は同時代の動向に左右される。「自然科学の分野でさえ画期的な発見がなされる度ごとに、唯物論はその形態を変えなければならない」(フリードリヒ・エンゲルス『フォイエルバッハ論』)。当時、一九世紀後半から、レーニンも賞賛したパーシバル・ローウェル(Percival Lowell)の火星人による「運河」を頂点にした天文学への関心が高まり、すでに多くのSF作家が宇宙について描き、さらにそれが映画化され、また初期のロケット開発が新聞で報道されている。もはや火星は人々にとって空想にとどまる場所ではない。事件の翌年、テキサスで、H・G・ウェルズと対談をした際、オーソン・ウェルズは自分たちがH・G・ウェルズの描いた未来を生きていると告げている。
 もし問題が、歴史のうちで行為している人間の動機の背後に―意識されてか意識されていないでか、しかもたいていは意識されないで―あって、歴史の真の究極の推進力となっている原動力を探求することであるとすれば、肝要なのは、どんな卓越した人間であろうとも個々の人間のもつ動機よりも、むしろ、大衆を、諸民族の全体を動かしている動機である。それも、一瞬パッと輝いてたちまち消えてしまうわら火のような行動へと駆り立てる動機ではなくて、大きな歴史的変化をもたらす持続的な行動を起させる動機である。
 ここで、行動している大衆とその指導者たち―いわゆる偉人たち―との頭脳の中に、意識された動機として、明瞭にか不明瞭にか、直接にかイデオロギーの形で天上に祭り上げられた形をさえとってか、反映されている推進的原因を探求すること、―これが、全体としての歴史をも個々の時代と個々の国の歴史をも支配している諸法則をつきとめることができる唯一の道である。
 人間を動かすものは、すべて人間の頭脳を通過しなければならない。しかし、それが人間の頭脳の中でどのようなかたちを取るかは、大いにそのときの事情次第である。
(エンゲルス『フォイエルバッハ論』)
 その上、三〇年代の人々はピリピリしている。一九二九年一〇月二四日、ニューヨーク株式市場で、ゼネラル・モーターズ社の株価が八〇セント下落したのをきっかけに株価が全面暴落を始める。この「暗黒の月曜日(Black Monday)」から、アメリカ合衆国にとどまらず、世界は未曾有の恐慌に陥ってしまう。一九三〇年代、SFはそういった苦境を忘れさせてくれる娯楽として、映画やマンガ、ラジオを通じて人々に受容されている。SFは、悲観的なヴィジョンに基づいているのであれ、楽観的であれ、シミュレーションとしてinvisibleな世界をvisibleにし、文学の中で最も視覚的である。初期の頃から、SFの本には挿絵が欠かせず、『二十世紀の戦争(La Guerre au Vingtième Siècle)』(一八八七)で知られるアルベール・ロビダ(Albert Robida)に至っては、自分でイラストを描いている。彼は、そこで、一九四五年に世界大戦が勃発し、戦車や飛行機、潜水艦といった兵器が開発され、テレビ電話が使われていると予言している。このジャンルは文学に限らず、視覚的なメディアと良好な関係を結んでいる。中でも、映画界において、SFはB級映画の代名詞として低予算ながら、集客を見こめるコンテンツである。とは言っても、産業革命の本格化に連れ、神の死の下、科学が新たな宗教として見られ、SFがその福音書だった時代は去り、この頃には、黙示録になり、いささかアンチ・ユートピア的な傾向を強めている。一九三三年、フランクリン・D・ルーズベルトが合衆国大統領に就任し、ニュー・ディール政策など数々の経済政策を打ち出すものの、落ちこんだ経済状態から脱却できない。労働者は、不満を爆発させ、ストライキによって抗議し、「赤い一〇年」が引き続いている。海の向こうのヨーロッパでも、経済状況は改善されず、左翼運動が激化し、同時に、全体主義体制が勃興する。昨日までの常識が突然覆り、ちょっとしたことでパニックが起きる臨界状態の雰囲気に人々は置かれている。
 SF映画は、最初から安っぽい娯楽だったわけではない。むしろ、映画誕生当初から中心的なジャンルとして映画の発展を支えている。フランスの奇術師で映画製作者となったマリー・ジョルジュ・ジャン・メリエス(Maries-Georges-Jean Méliès)はジュール・ヴェルヌの原作に基づいて『月世界旅行(Le Voyage dans la lune)』(一九〇二)を製作しているし、アメリカでも、トーマス・エジソンの設立した映画製作会社が『火星旅行’(A Trip to Mars)』(一九一〇)を発表している。さらに、ドイツの表現主義者たちは映画史に残る名作を生み出している。ロベルト・ウィーネ(Robert Wiene)の『カリガリ博士(Das Kabinett des Dr. Caligari)』(一九一九)とフリッツ・ラング(Fritz Lang)の超大作『メトロポリス(Metropolis)』(一九二七)はその代表であろう。ラング監督は『月世界の女(Die Frau im Mond)』(一九二九)ではロケット打ち上げの際のカウント・ダウンを採用し、これは現在に至るまで宇宙ロケット発射の欠かせない儀式になっている。一九三〇年代、不況のため、大作映画の製作が困難になり、低予算映画を前座にした二本立てで映画会社は見劣りをカバーしようとしたが、そのB級映画はたいてい活劇かSFである。アメリカでは、『フランケンシュタイン(Frankenstein)』(一九三一)や『透明人間(The Invisible Man)』(一九三三)、イギリスにおいては、興行的には失敗したものの、H・G・ウェルズが自作を自ら脚色した『来るべき世界(Things to Come)』(一九三六)が製作されている。このイギリス映画は荒唐無稽な法螺話と当時の観客の物笑いの種になっている。ただ、マンガ『フラッシュ・ゴードン(Flash Gordon)』が「クリフハンガー(Cliffhanger)」と呼ばれる週末ごとに公開される連続映画として、例外的に、予算をかけて製作されている。
Flash - Ah - Saviour of the universe
Flash - Ah - He'll save ev'ry one of us
Seemingly there is no reason
for these
Extraordinary intergalactical upsets (ha ha ha)
What's happening Flash?
Only Dr Hans Zarkov formerly at N A S A
Has provided any explanation
Flash - Ah - He's a miracle
This mornings unprecedented
solar eclipse
Is no cause for alarm
Flash - Ah - King of the
impossible
He's for ev'ry
one of us
Stand for ev'ry
one of us
He'll save with a mighty hand
Ev'ry man ev'ry
woman ev'ry child
With a mighty Flash
General Kaka Flash Gordon
approaching
What do you mean Flash Gordon
approaching?
Open fire all weapons
Dispatch war rocket 
Flash - Ah
Gordon's alive
Flash - Ah - He'll save ev'ry one of us
Just a man with a man's courage
He knows nothing but a man
But he can never fail
No one but the pure in heart
May find the golden grail oh oh oh oh
Flash Flash
I love you
But we only have fourteen hours
to save the Earth
Flash
(Queen “Flash”)
 こうしたSFを生み出したのはエドガー・アラン・ポー(Edgar Alan Poe)──特に、『ハンス・プファールの比類なき冒険(The Unparalleled Adventures of One Hans Pfall)』(一八三五)──であり、確立させたのはジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)とH・G・ウェルズである。何度も映画やアニメ、テレビ番組化されるメアリー・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin
Shelley)の『フランケンシュタイン(Frankenstein: or The Modern Prometheus)』(一八一八)は、ポーに先立つSF作品だとも言える。彼女はフェミニズムの先駆者であるメアリー・ウォルストンクラフトと無神論者でアナーキストのウィリアム・ゴドウィンの間に生まれ、詩人のパーシー・シェリーと結婚している。史上初めて、マッド・サイエンティストによる実験をとり入れ、これはSFのお約束のシーンお一つである。けれども、共時性とスキャンダル性、描写力の点で、『フランケンシュタイン』が先駆的であるとしても、ポーの小説をSFの起源と見なすべきだろう。一八三五年九月、『ニューヨーク・サン(New York Sun)』紙がイギリスの天文学者ジョン・ハーシェル(John Herschel)が月には生物が住んでいて、文明があることを発見したとでっちあげの記事を掲載し、発行部数を伸ばしたという事件が起きている。その際、この一件はポーが『ハンス・プファールの比類なき冒険』の話題づくりに仕掛けたのだとライバル紙が報道し、作家自身が否定する談話を発表する羽目になる。ポーは方法を意識して、創作する。この方法の文学はオブジェクト指向であり、彼は、結果、SFだけでなく、ミステリーやホラーなどさまざまなジャンルを創出している。その上、死体を蘇らせるというアイデアを伝える彼女の文章力では、当時の人々にとっても、信憑性に欠ける。ポーの魅惑的な文体があってこそ、未知の世界は説得力を持つ。ヴェルヌはポーの作品に影響され、彼の小説の続編を書くなどしてその技法を研究している。SFの系譜は、以上の理由から、かのアメリカの不運な天才作家から始まると考えるべきであろう。
 もっとも、ポーにしろ、ヴェルヌにしろ、ウェルズにしろ、SFというジャンルを書いている意識はない。ウェルズが自作を「サイエンティフィック・ロマンス(Scientific Romance)」と呼んでいたけれども、SFという概念が生まれ、定義されるのはローリング・トゥエンティーズの頃だからである。編集者・発行者・発明家・作家のヒューゴー・ガーンズバック(Hugo Gernsback)は、一九二九年、破産のため、一九二六年に創刊した『アメージング・ストーリーズ(Amazing Storied)』誌を乗っとられてしまう。起死回生を狙って、彼は新雑誌の企画を試みるものの、表紙につけていた「サイエンティフィクション(Scientifiction)」も使えなくなってしまったので、『サイエンス・ワンダー・ストーリーズ(Science Wander Stories)』誌や『エアー・ワンダー・ストーリーズ(Air Wander Stories)』誌に掲載するジャンルを「サイエンス・フィクション(Science Fiction)」と命名する。SFは、『アメージング・ストーリーズ』での彼の定義によれば、「ジュール・ヴェルヌ、H・G・ウェルズ、エドガー・アラン・ポーなどのタイプ、つまり、科学的事実と予言的洞察が渾然一体となった魅力的な物語のことを言う」。このルクセンブルク移民は、科学を啓蒙するには、フィクションが最適と考え、その目的の下、かつてなかったSFの専門誌を発行している。科学知識の啓蒙に未来予測、文明批評、読者を魅了するストーリーと登場人物を備えた小説は伝統的・支配的な文学とは異なるのであり、新たなジャンルとして規定されなければならない。
 科学の価値は、科学そのものによってしか証明されない。いかに、科学は人間にとって必要であるか、未来は科学によって支えられるか、等々を説いたところで、それはオセッキョーにしかならない。人間は、みずから科学を獲得し、みずから理解を高めていく中でしか、その価値を理解することはできない。
(森毅『学校とテスト』)
 まだラジオ放送が始まっていない一九一一年、ラジオの送受信機をセット販売していたガーンズバックは、売り上げ促進の目的で、『モダン・エレクトロニクス(Modern Electronics)』誌を創刊し、同誌に自作の長編小説『ラルフ124C41+(Ralph 124C41+)』を連載し、それを「サイエンティフィクション」と呼び始める。その後、『アメージング・ストーリーズ』でもその名称を使い続けたものの、一般には浸透していない。アメリカでは、『アメージング・ストーリーズ』以降、SFは主に雑誌を通じて普及していくが、これは極めて二〇世紀的現象である。一九世紀の研究者や作家が本を通じて論文・作品を公表したのに対し、二〇世紀は雑誌が主流の媒体になる。一八九〇年代に誕生した挿絵が挿入された雑誌は少なからずSFを掲載したし、一九〇〇年前後に続々と発行された「パルプ・マガジン(Pulp Magazine)」の中にも、科学を小道具にした恋愛小説や冒険活劇が多くある。とは言うものの、SFの専門誌は『アメージング・ストーリーズ』が初めての試みであり、これはタイムリーな決断である。そのスタイルで発行しても、教育水準が上がり、SFの愛読者が相当数定着し、経営上問題がなくなるまでには、大衆文化が盛況を迎える一九二〇年代の半ばを待たなければならない。
 当時のSF作家たちは作品の文学性や登場人物の性格描写などより、アクションとロマンス、ファンタジーの要素をとりこみ、新しく魅惑的な科学的小道具を考案することに執念を燃やしている。未知の惑星や宇宙人、宇宙船、新兵器によって、読者は「センス・オブ・ワンダー(Sense of Wonder)」を覚え、SFの人気はとどまるところを知らない。それは「スペース・オペラ(Space Opera)」と呼ばれ、正義感に溢れ、男ぶりがよく、並みはずれたヒーローが、宇宙を冒険しつつ、宇宙人や怪物を相手に活劇を繰り広げ、美しいヒロインとロマンスに落ちるという作品である。ただ、やる気は認められるものの、ときとして、強すぎる思いから常識を欠き、突っ走ってしまうのが玉に瑕である。これは小説に限らない。『バック・ロジャース(Buck Rodgers)』や『フラッシュ・ゴードン(Flash Gordon)』といったマンガもSF人気に一役かっている。この延長線上に、『スター・トレック(Star Trek)』や『スター・ウォーズ(Star Wars)』がある。
 火星人パニックの前年の一九三七年、MIT出身で、「ドン・A・スチュアート(Don
A. Stuart)」というペンネームのSF作家ジョン・W・キャンベル(John
Wood Campbell, Jr.)が『アスタウンディング・サイエンス・フィクション(Astounding Science Fiction)』誌の第三代編集長に就任すると、荒唐無稽なスペース・オペラを排除し、より正確な科学知識と文学性に裏付けされた作品の掲載を編集方針に打ち出す。時代はもう狂乱の二〇年代ではない。重苦しく、出口のなかなか見えない三〇年代である。SFは大衆の文学であるとしても、読者の好みに応えるだけでなく、A級文学に十分に成長し得る。その姿勢の確かさは、一九四四年、クリーヴ・カートミル(Cleave Cartmill)の『デッドライン(Deadline)』を掲載したことで証明される。FBIは、突然、国家機密漏洩の嫌疑で編集部を家宅捜索している。極秘裏に進められたマンハッタン計画とあまりに類似していたため疑われたのだが、「科学雑誌の記事を詳しく読めば、これくらいの情報は集められる」と反論し、認められている。ちなみに、原爆開発者の一人レオ・シラード(Leo Szilard)は、史上初めてその言葉が使われたウェルズの『解放された世界(The World Set Free)』(一九一四)の「原子爆弾(Atomic Bomb)」の記述を参考にしたと告げている
 けれども、同じ頃、『スーパーマン(Superman)』(一九三八)や『バットマン(Batman)』(一九三九)、『ワンダー・ウーマン(Wonder Woman)』(一九四一)、『キャプテン・アメリカ(Captain America)』(一九四一)などヒーロー物のSFマンガをコミック本から登場している。マンガ家の多くが労働者階級の出身だったため、低賃金で長時間労働を強いられるにもかかわらず、不況の中、働けているだけでも幸せ者と感じていたからである。彼らの考案したヒーローは自分の願望を具現化している。それぞれに人には明かせない過去を持ち、不正と悪徳に苦しめられている人々に代わって、正義のために、危険を顧みず、悪と戦う使命感に満ちている。安くて、カラフル、わかりやすいコミックは子供の間に、その科学的妥当性はともかく、SFを浸透させる役割を果たしていく。10台の少年を主な読者層にしていることは、SF雑誌の表紙は内容とはまったく関係がないスケスケの宇宙服の女性という点でも明らかであろう。
 海のもの山のものとも思えないものが出現すると、大部分は消えてしまうものの、中には、一部のマニアの間でカルトな人気を獲得する。次第に、草の根が育ち、受容者層が拡大し、産業として確立し始め、類型的で、創造性を欠く作品が安易に生み出される反面、高い芸術性を目指して、意欲的な先鋭的作品が登場する。しかし、この芸術的な作品が主流になり、入門的な作品が排除されてしまうと、受容者層が痩せてしまい、草の根は枯れてしまう。先進的な作品と同時に、わかりやすく、楽しめる作品も欠かせない。
 今やSFは現代文化の重要な一部である。純文学系の作家もSFの方法論を大胆に導入しているだけでなく、「ニュー・ウェーブ(New Wave)」や「サイバー・パンク(Cyber Punk)」に由来するオルタナティブな「変流文学(Slipstream)」は現代文学の中心的地位を占めている。また、日本文化を代表するAnimangaの多くはSFである。他にも、ゴジラを忘れてはならないだろう。SFは、現在、アメリカを中心に、巨大な産業に成長している。映画やテレビ、マンガのみならず、SFは最も人気のあるゲーム・ソフトであり、SFに登場するガゼットが後に商品化されることも少なくない。さらに、科学者自身SFを実現化しようとしている。SFをたんなる子供だましと一蹴することなどもはやできない。社会的地位を認められると、しばしば、生真面目になり、冒険を恐れるようになるが、そういった心配はSFには無用だろう。
 古代哲学は原始的な、自然生的な唯物論であった。そういうものとしてこの哲学は、思考の物質に対する関係をはっきりさせることができなかった。ところで、この点を明らかにする必要が、肉体から分離できる霊魂についての学説を生み、ついでこの霊魂の不滅の主張を、最後に一神信仰を生みだした。こうして、古い唯物論は観念論によって否定された。しかし、さらに哲学が発展していくにつれて、観念論もまた維持できなくなって、近代唯物論によって否定された。否定の否定であるこの近代唯物論は、たんに古い唯物論の復活ではなく、古い唯物論の永続的な基礎の上に、なお二〇〇〇年に渡る哲学および自然科学の発展と、さらに二〇〇〇年間の歴史そのものとの思想内容をつけくわえたものである。それはもはや哲学ではまったくなく、たんなる世界観であり、そして、この世界観は、なにか特別の科学中の科学においてではなく、現実の諸科学において、みずからを確証し、実証しなければならないのである。こうして、哲学はここでは「止揚」されている。すなわち、「克服されたと同時に保存され」ている。その形式からいえば克服され、その現実の内容から言えば保存されている。
(フリードリヒ・エンゲルス『反デューリング論』))
 SF的なテーマは、それ以前の文学作品の中にすでに見られる。いわゆる四大文明のみならず、各地の神話や口承文学にも、読みようによっては、そうした要素が認められる。紀元前八世紀頃に記されたとされる古代バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』は至高の知と不死の探究を扱っており、『エゼキエル書』は外界よりの物体を描いているとも言えるし、ギリシア神話において、ダイダロスと息子のイカロスが鳥のように空を飛ぶことに挑戦している。この親子を踏まえて、一八世紀、フランスのレチフ・ド・ラ・ブルトンヌ(Rétif
de la Bretonne)が『南半球の発見(La Découverte
australe ou les Antipodes)』(一七八一)で人工の翼を使って南半球を探検する主人公を登場させる。また、前四世紀、プラトンは『国家』の中で理想の政治体制を説き、『ティマティオス』と『クリティアス』では謎の大陸アトランティスに言及している。後にこのジャンルは、トマス・モアの『ユートピア(Utopia)』(一五一六)によって、実社会を諷刺する「ユートピア文学」と呼ばれることになる。古代ローマ時代、後一七〇頃、ルキアノスの『本当の話』(には月旅行の話が登場し、平安時代前期の作品とか推測されている日本の『竹取物語』は月世界人を描いている。大乗仏教の経典『維摩経』には、超能力戦争とも言うべき記述が見られるし、中東欧のユダヤ人の間では人造人間ゴーレムの伝説が語られている。一七世紀には、フランスの詩人・作家シラノ・ド・ベルジュラック(Savinien
Cyrano de Bergerac)、ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler)、一八世紀になると、偉大なヨーロッパ人ヴォルテール(Voltaire)、イギリスの哲学者・小説家ウィリアム・ゴドウィン(William Godwin)らが月世界や異星人をとりあげている。一七五〇年頃、初期の産業革命が始まり、SFを生み出す社会的・歴史的背景が用意されていく。
 産業革命期の機械は伝統的な機械とは異なっていることを柄谷行人は、『階級について』において、デカルトとマルクスの認識の違いから次のように言及している。
 『資本論』において、マルクスは機械について独特の考察をしている。それによれば、機械は三つの本質的に異なる部分から成り立っている。原動力(モーター)装置、それを変換して伝達する装置、狭義の機械すなわち道具。蒸気機関が原動力となるとき、それは生産を、人間の身体力、あるいは個人的差異から解放し、水力や風力に必要な地理的自然条件の差異からも開放する。マニファクチュア期にはかえって地方に拡散していた工場は都市に集中し、“風景”を一変する。蒸気機関によって、はじめて実質的に資本制生産が可能となり、それが貨幣経済をとおしてすべての生産を包摂するのである。
 マルクスの「機械」論において、興味深いのは、一般に機械といわれているものはその一部分にすぎないこと、また労働者は機械のたんに一部を操作しうるだけの「主体」にすぎないということである。この「機械」論は、デカルトにおける延長=道具(機械)とそれを操作する意識主体(コギト)という考えを否定する。意識はもはやデカルト的な主体ではありえない。意識は「心」の一部にすぎず、そして無意識は言語的な象徴機構をとおして意識に達する、といったフロイトのメタサイコロジーにもあてはまる。フロイトの思考を機械論的とよぶのはあやまりであって、逆にデカルト的な思考が機械論的なのである。
 SFは神話的要素を多く含むとしても、あくまで近代の産物である。前述の作品群にはマルクスの機械論が即するような近代的な意味での「科学」が欠けており、厳密にはSFと呼べない。「本当のところ、すべてのサイエンス・フィクションの歴史家の誤りは、科学、さらには応用科学の存在しないかぎり、サイエンス・フィクション(《科学的未来予測》と名づけられていようとも)が存在しえないことを無視していることにある」(ジャン・ガッテニョ『SF小説』)。科学はinvisibleな蒸気や電気によってvisibleな社会の変化をもたらしている。未来というinvisibleなものを顕在化させるには科学はふさわしい。産業革命によって成長した資本主義は神の死をもたらし、人々を身分から解放する。人々は身分に囚われず、売買を行い、職業に従事できる。「未来」が、そのため、空白として出現してくる。封建時代、農民の子は農民であり、貴族の子弟は貴族になる。彼らにとって未来は過去と現在の繰り返しにすぎない。変化は、父や祖父の世代と比べて、微妙である。しかし、資本主義社会では未来は宿命ではない。いくら財産があるのか数えられないくらいの金持ちになれるかもしれないし、逆さに吊るしたって涙も出てこない貧乏人に落ちぶれてしまうかもしれない。未来には希望と不安がある。それに科学が答え始める。一九世紀は、宗教的なものを含めて、未来の予想が流行しているが、科学は、宗教と違い、未来の多重性・可能性を強調する。未来の社会はこうであるかもしれないし、ああであるかもしれないとSFは人々に訴える。SFが描く未来は宗教のような共同体の規範ではない。楽観的であれ、悲観的であれ、読者の属している社会に対する希望もしくは警告の諷刺であり、科学技術に対するアンビバレントな感情が反映している。
 近代の科学は「科学者(Scientist)」と共に誕生する。アルキメデスやガリレオ・ガリレイ、アイザック・ニュートンは画期的な科学的発見をしていても、彼らは「科学者」ではない。「知を愛する人」である。そもそも、一八四〇年頃まで、”scientist”という英単語は存在していない。中世において、七つの自由学科を学ぶ自由人にとって、神学・医学・法学が学問の主流だったし、ルネサンスでは、万能人が理想とされている。村上陽一郎の『新しい科学史の見方』によると、一九世紀の英国を代表する生物学者トマス・ハクスリー(Thomas Henry Huxley)は「科学者(Scientist)」という単語を初めて耳にしたとき、英語をろくに知らないアメリカ人による造語に違いないと毒ついている。「科学 (Science)」はラテン語で「知識」を意味するscientiaに由来し、一九世紀以前は広く知識全般または学問を指して使われている。ハクスリーのような教養と学識に溢れる知識人からすれば、「科学する人」なら、-istという接尾語ではなく、-ianが適切であり、scientianとすべきではないのかというわけだ。前者の接尾辞は、pianistのように、比較的狭い領域に用いられ、後者は、musicianの通り、それよりも広い範囲を指す。ところが、産業革命の技術発展に貢献した多くはアカデミズムに属さないアマチュアであって、極めて狭い専門領域に通じているだけである。神の死によって科学は変容している。専門化・細分化が科学において始まっている。「科学者」は、こうした変化を踏まえたイギリスの哲学者兼科学史家ウィリアム・ヒューエル(William Whewell)による造語である。定着してからも、なお、ハクスリーは、終生、「科学者」と呼ばれることを拒み続けている。
 しかも、一八四〇年代は、一九世紀の欧米において、転機の時期にあたる。一八四八年、ヨーロッパ各地で革命が勃発し、反動的なウィーン体制が瓦解する。一方、新大陸でもゴールド・ラッシュが始まり、移民が急増し、アメリカのピューリタン的道徳観の絶対性が崩れていく。これを境に、国民国家体制=産業資本主義が西洋に広がっていく。もう後戻りはできない。
There's a kid in a band
Got an axe in his hand
He's been learning all the
chords
and he's writing all the words
Today you bought a new face
Tried it on for size
Now you see the world through
Different coloured
eyes
They're not playing
They're not playing
They're just having
Adventures in modern recording
Adventures in modern recording
Adventures in modern recording
So carefully directed
For modern mass appeal
Look just like a poster
Got yourself a deal
Let's begin promotion
This boy has got it made
Media exposure
It will make him all the rage
But he's not playing
He's not playing
He's just having
Adventures in modern recording
Adventures in modern recording
Adventures in modern recording 
(Buggles “Adventures In Modern Recording”)
 ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)は、変わりゆく社会に、SFを書き始め、ほぼこのジャンルに終始する。友人のナダール(Nadar: Gaspard-Félix Tournachon)が気球をつくったことに触発されて、一八六三年、『五週間の風船旅行(Cinq semaines en ballon)』を刊行し、話題になり、科学に基づく新しい作風の流行作家になり、膨大な作品を著わしていく。『地底旅行(Voyage au centre de la Terre)』(一八六四)は地下世界での冒険、『月世界旅行(De la Terre à la Lune)』(一八六五)は宇宙旅行、『海底二万里(Vingt mille lieues sous les mers)』(一八七〇)は潜水艦による海底探検を描いている。これらは後のSFの定番である。生前、発表された作品の多くは確かな科学的知識に基づいた冒険小説であり、多くの作品は未来に対して楽観的であったが、これは、アレキサンドル・デュマから紹介された編集者ピエール=ジュール・エッツェル(Pierre-Jules Hetzel)の意向であって、実際には、『二十世紀のパリ(Paris au XXe siècle)』のような悲観的な作品も残している。この一八六三年に執筆された作品は彼の孫ジャン・ヴェルヌによって発見され、一九九四年に出版されたが、驚くほど、二〇世紀後半のパリに近い描写が見られる。エッツェルの死後、彼の作品は陰鬱な雰囲気を帯びるようになっている。
 その後、現代のSFのフォーマットの作成者を最初に産業革命さ進行し、『種の起源』が発表されたイギリスが生み出したとしても、不思議ではない。H・G・ウェルズである。この丁稚奉公の経験者は、一八九四年から説得力に富む描写とアイロニーに溢れ、暗さを帯びたSFの執筆を始める。ダーウィン主義者のトマス・ハクスリーの指導を受けた彼は生物学と唯物論に関心を寄せ、科学的発明自体の正確な記述よりも、その発明が社会にいかなる影響を与えるかを描いている。一八九五年の『タイム・マシン(The Time Machine)』は彼の名声を一挙に高め、『モロー博士の島(The Island of Dr. Moreau)』(一八九六)、『透明人間(The Invisible Man))』(一八九七)、『宇宙戦争(The
War of the Worlds)』(一八九八)、『月世界最初の人間(The First Men In the Moon)』(一九〇一)など数多くの作品を発表したが、『現代のユートピア(The Modern Utopia)』(一九〇五)や『解放された世界(The
World Set Free)』(一九一四)といったサイバー・パンクの先駆的な作品を執筆した後、第一次世界大戦にショックを受け、創作活動の中心を文明批評や社会小説へとシフトしている。
 ナント出身の小説家が科学的知識に忠実であろうとしていたのに対し、ケント生まれの作家は科学的裏づけが以上に物語性を優先している。前者は近未来を舞台にし、彼の描いた科学的予想は、何らかの形で、実現している。SFオタクと変人の集大成アポロ計画とヴェルヌの月世界旅行のデータとは極めて酷似している。ヴェルヌは打ち上げ地をフロリダ州タンパに設定しているが、アポロ11号はそこから二二〇キロメートル離れたケープカナデラルから月に向かっている。彼はアメリカ人のバイタリティがそれを可能にすると考えていたけれども、その根拠は重要ではない。巨大な大砲によってロケットを打ち出すという前提も同様である。ヴェルヌの想定したロケットの初速は毎秒一万七九〇キロメートルであるのに対し、三段目ロケットの初速の秒速は一万八〇〇キロメートルであり、月までの所有時間はいずれも四日である。弾道を計算するコンピューターENIACが開発されるのは一九四六年のことである。宇宙船の形状は双方とも円筒円錐形で、高さはヴェルヌの三・六メートルに対して、アポロでは三・二メートル、直径に至っては、一九世紀の作品が二・九二メートルと設定し、ケネディの夢は三・九一メートルを採用している。ヴェルヌは潜水艦を描いても、タイム・マシンを扱わない。数多くの科学者や技術者が彼の小説に触発されてその道に進んでいる。その反面、後者は哲学や倫理を再考させる。ダーウィニズムに従うならば、未来の人間はどうなっているのだろうかと彼は問いかける。両者は、現代に至るまで、二つの原型であり、その弁証法によってSFの歴史は構成されている。彼らはSF自身の未来について具現化したとも言える。SFは、結局、この二人の巨匠の焼き直しである。
 SFは文明批評をつねに含み、もしもの世界を描く以上、ウェルズの『透明人間』がプラトンのギュゲスの指輪を踏まえていつように、哲学的・倫理的諸問題への懐疑をさしはさむ。それは科学技術の発展が逆説的に導き出してしまうものである。
 アイザック・アシモフ(Issac
Asimov)は、『アイ、ロボット(I, Robot)』の中で、「ロボット工学三原則(Three Laws of Robotics)」を次のように規定している。
1.A robot may not injure a human
being, or, through inaction, allow a human being to come to harm. 
2.A robot must obey the orders
given it by human beings except where such orders would conflict with the First
Law. 
3.A robot must protect its own
existence as long as such protection does not conflict with the First or Second
Law.
第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、危険を看過することによって人間に危害を及ぼしてはならない。
第二条 ロボットは人間から与えられる命令に服従しなければならない。ただし、与えられた命令が第一条に反する場合はこの限りではない。
第三条 ロボットは前掲の第一条および第二条に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない。
 このロボットは、神の前の人間の姿とも、資本主義体制下のプロレタリアートとも、公民権運動以前の黒人とも、男性中心主義での女性とも、解釈することができる。SFは寓意をはらんだ近代の諷刺にほかならない。
 SFは、言うまでもなく、文学であって、最終的に、作品の出来を左右するのは科学に関する知識ではなく、設定や筋、構成、文体といった文学の領域であり、ヴェルヌも、ウェルズ同様、その能力が秀でていたことは間違いない。サイエンスがフィクションにリアリティを与え、フィクションがサイエンスに想像力を吹きこむ。この弁証法によってSFは歴史の形成に寄与している。SFは、そのジャンルの確立につれ、「国民文学」である「近代小説(Modern Novel)」に対し、ミステリーやファンタジーなどと共に、非主流の大衆文学と見なされるようになっている。近代小説が抑圧してきた諸ジャンルが現代文学として復活し、SFがその一つと認知されるには、国民に代わって、エスニックが再認識される二〇世紀後半を待たなければならない。ジャンルはエスニックに譬えられる。もっとも、近代文明に対する異議申し立てとして、多くの純文学者がSF.的要素を作品にとり入れている。ナサニエル・ホーソーンやマーク・トウェーン、ジョセフ・ラドヤード・キップリング、ヴァージニア・ウルフ、フランツ・カフカ、大江健三郎など挙げればきりがない。SFはロマンスに属し、いかに斬新な世界を提示していても、概して、その形式は古典的であるが、ポーが挑戦したように、方法を試すには適している。体系の世紀である一九世紀が終わり、方法の世紀である二〇世紀、オルタナティブを志向する「現代小説(Contemporary Novel)」、すなわちメロドラマが主流になると、SFやミステリー、ホラー、アドベンチャー、ミリタリーと共に、文学の重要なジャンルとして復権し、しかも、それぞれのジャンルは融合する。われわれはかくしてSFの時代に生きている。
Every day my metal friend
Shakes my bed at 
Then the shiny serving clones
Run in with my telephones
Talking fast I make a deal
Buy the fake and sell what's
real
What's this pain here in my
chest? 
Maybe I should take a rest
They send the heart police to
put you under,
Cardiac arrest 
and as they drag you the door 
They tell you that you've
failed the test
Living in the ...
Living in the plastic age
Looking only half my age
Hello doctor lift my face
I wish my skin could stand the
pace
In the bed I read my mind
Remember how the mice were
blind
I watch them fighting in their
cage
Could this be the plastic age? 
They send the heart police 
to put you under cardiac arrest
and as they drag you the door 
they tell you that you've
failed the test
Living in the 
Plastic age
Plastic age
Plastic age
They send the heart police to
put you under Cardiac arrest 
and as they drag you the door 
They tell you that you've
failed the test
Living in the plastic age
Plastic age
Plastic age
(Buggles “Living In The Plastic Age”)
2 Engels ou Leibniz
 すべての文化民族は土地の共同所有から出発している。一定の原始段階を抜けだしたあらゆる民族において、農耕が発展してゆく過程で、子の共同所有は生産に対する桎梏となる。それは廃止され、否定され、長短さまざまな中間段階を経て私的所有に転化される。しかし、土地の私的所有そのものによって農耕のより高度の発展段階がもたらされると、そこでは逆に私的所有が生産に対する桎梏となる。−これこそ、小土地所有と大土地所有とを問わず、今日見られるところの状態である。この私的土地所有をもやはり否定して、ふたたび共有財産に転化しようとする要求が、必然的に現われてくる。だが、この要求は、昔の原始的な共同所有の再興を意味するものではなく、はるかに高度の、より発展した共同所有の形態を打ち立てることを意味するのであって、この形態は生産の障害になるどころか、むしろ初めて生産を桎梏から解きはなして、近代の化学的発見や機械的発明を生産に十分に利用できるようにするのである。
(『反デューリング論』)
 フリードリッヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)の作品は、彼がファンタスティックなサイエンス・フィクションの作家だということを示している。未来を語った史上初めての哲学者と言ってよい。理想の政治・経済体制を述べた哲学者はすでに数多く存在している。しかし、彼は社会主義社会・共産主義社会といった来るべき社会を生産様式・生産関係の変化から科学的に説明していく。その変化は神の決定によって起きるわけではない。資本主義社会は内在する矛盾によって崩壊を迎え、自らの歴史的使命を自覚したプロレタリアートが階級闘争を通じて達成する。このシナリオはSFそのものだろう。ゲーム・ソフトにできる。エンゲルスはポーとヴェルヌの間を埋めるSF作家であり、科学的分析と予言的洞察が弁証法的に融合した魅惑的な物語だ。マルクス主義以前の社会主義思想はアカデミズムの住人が、少々興味を覚えたとしても、まともに研究すべき正統的な学問ではない。俗っぽく、荒削りで、洗練されていないパルプ・セオリー、すなわちB級思想である。プロレタリアートはパンクな存在にすぎない。社会主義者は、伝統的な知識人から、「科学者」同様、見下されている。
 一八二〇年一一月二八日、紡績産業で成功を収めた裕福なドイツ人経営者の長男として、バルメン・エルバーフェルト(現ヴッパータール)に生まれたフリードリヒは、カール・マルクスと違い大学に進学していない。高等中学校を中退後、ブレーメンの商事会社に就職している。若くして、「若きドイツ派」の文芸運動に参加し、一八四一年、志願して入隊した軍隊生活中に、ヘーゲル左派の哲学に接し、翌年、除隊後、ライン新聞に在籍しながら、文芸批評・哲学論文・時事論説を発表している。父が大株主のマンチェスターにある紡績工場に勤めるため、イギリスへ渡り、ヨーロッパ一発達した資本主義国における都市の労働者階級の劣悪な現状に衝撃を受け、それを『イギリスにおける労働者階級の状態(Die Lage der arbeitenden Klasse in England)』(一八四五)として出版し、注目されている。エンゲルスは、初期の頃、この作品の他、『ドイツ農民戦争(Der deutsche Bauernkrieg)』(一八五〇)など個別の歴史的出来事の分析に能力を発揮している。彼の名前は、もちろん、あの男と切り離せない。アルノルト・ルーゲ(Arnold Ruge)とカール・マルクスが編集する『独仏年誌(Deutsch-Französische Jahrbücher)』に寄稿したのがきっかけで、一八四四年、パリで再会し、思想史上最も有名な共同作業が始まる。四二年にケルンで二人は会っていたが、そのときの印象はお互いに芳しいものではなかったと伝えられている。極めて刺激的な『ドイツ・イデオロギー(Die Deutsche Ideologie)』に二人でとりかかっやものの、未完に終わり、次いで、エンゲルスの草案『共産主義の原理(Prinzipien des Kommunismus)』に基づいて、『共産党宣言(Das Manifest der Kommunistischen
Partei)』(一八四八)をマルクスと共同執筆している。マルクスよりもエンゲルスの方が思想家として先行していたが、以降、ハンサムで乗馬の得意な彼は自らを「第二バイオリン」に譬えるようになる。マルクスと交友が始まってから、左翼の活動家の間では自然科学や言語学、軍事科学を得意とすることでも知られている。大方の予想とは逆に、一八七〇年の普仏戦争の際、フランス軍がプロシア軍にスダンで包囲されて大敗すると予測し、それ以来、彼は「将軍」もしくは「マンチェスターの陸軍省」(カール・マルクス)と呼ばれている。著作では、示唆に富みながらも、難解晦渋なマルクスと異なり、極めて平易な文体で明確な図式によって科学的社会主義がいかなるものであるかを解説する。このチャートも、実際には、言われているほど短絡的ではない。社会主義思想のB級性を残しつつ、理論性を追求する方法である。その上、マンチェスターの工場経営による収入の一部で、マルクス一家の生活を支え、ときには、代わって新聞記事を書くだけでなく、彼の非嫡出子を自分の子として引きとり、育てている。著述家としては、『自然弁証法(Dialektik der Natur)』(一八七三)にとりかかり、あまりに粗雑なオイゲン・デューリング(Eugen
Dührings)の三つの著作──『哲学教程』・『国民=社会経済学教程』・『国民経済学および社会主義の批判的歴史』──に対する批判として、『反デューリング論(Herrn Eugen Dührings Umwälzung der Wissenschaft:
Anti-Dühring)』(一八七八)を刊行するが、これは極めて広範囲に渡る百科全書的な著作である。他にも、『空想から科学への社会主義の発展(Die Entwicklung des Sozialismus
von der Utopie zur Wissenschaft)』(一八八〇)
、『家族・私有財産・国家の起源(Ursprung der Familie, des Privateigentum und des Staates)』(一八八四)、『フォイエルバッハ論(Ludwig Feuerbach und der
Ausgang der klassischen deutschen Philosophie)』( 一八八六)などを発表している。一八八三年のカールの死後は、『資本論』を含め、彼の原稿を整理・編集し、さらに、同時代の左翼運動を指導している。エンゲルスによって、マルクスの思想は民主化・自由化されたのであり、彼はマルクス主義のファクトリーである。一部の急進派や通俗的なディレッタントのための社会主義ではなく、草の根のマルクス主義者を育てあげたと言ってよい。彼の理想とする革命家は青白い顔色のインテリではなく、エンジニアのようである。マルクス主義は思想史上最も広範囲にその名が知られ、考察されている哲学である。アカデミズムでも研究され、ジャーナリズムもとりあげられ、大衆も話題にする。しかも、その影響は経済学から哲学、文学、政治学、社会学など極めて多岐に渡る。こうした状況が実現したのには、エンゲルスの功績が大きい。カールは素晴らしいマネージャーあるいはエージェントに恵まれたと感謝しなければなるまい。私生活では、結婚はせず、元女工の内縁の女性メアリー・バーンズ(Mary Burns)と暮らし、一八九五年八月五日、ロンドンで死去した際、自らが祀り上げられることを決して好まなかった遺言により、イギリス南部のドーバー海峡に面するお気に入りのイーストボーン(Eastbourne)の沖合いに散骨される。そのすべてにおいて、極めて二〇世紀的な人物である。
 ヘーゲルの思考方法がほかのすべての哲学者たちのそれにぬきんでていた点は、その基礎にある巨大な歴史的意識であった。その形式はひどく抽象的で観念的だが、彼の思考の展開はつねに世界史の発展と平行して進んでおり、そして後者はただ前者の検証にすぎないものとされている。たとえ正しい関係がこのことによってねじまげられ、逆立ちさせられたにしても、やはりいたるところで現実的な内容が哲学に入りこんできた。ヘーゲルは彼の弟子たちと違って、彼らのように無知を鼻にかけるのではなく、あらゆる時代を通じてもっとも博識な頭脳の一人であったから、いっそうそうであった。彼は歴史のうちに発展を、内的連関を示そうとした最初の人であった。彼の歴史哲学のうちの多くのことが今日われわれにどんなに奇妙に思われようと、彼の根本的見解の壮大さは、彼の先行者や、また彼以後に身のほどを知らずに歴史について一般的考察をした人びとと比べてみると、今日なお驚嘆に値する。『現象学』においても、『美学』においても、『哲学史』においても、いたるところこの壮大な歴史観が貫かれており、いたるところで素材が歴史的に、すなわち抽象的にゆがめられてはいるが、歴史との一定の連関のうちに、取り扱われている。 このような画期的な歴史観は、新しい唯物論的見解の直接の理論的前提であった。
 (エンゲルス「カール・マルクス『経済学批判』第一分冊」)
 G・W・F・ヘーゲルを唯物論的に転倒したのは巨人マルクスではなく、エンゲルスである。『空想から科学へ』は、「空想的社会主義」・「弁証法的唯物論」・「資本主義の発展」という三つの柱によって、構成され、これらは弁証法的な関係にあり、この点で彼は師匠に忠実である。しかし、「弁証法とは、自然、人間社会および思考の一般的な運動=発展法則にかんする科学という以上のものではない」(『反デューリング論』)と指摘する彼は偉大なベルリン大学総長の禁止事項を破っている。それは「哲学者は未来を語るべきではない」ということであり、新しい「科学」の認識に負い、エンゲルスはここから危ないアウトサイダーとしてヘーゲル哲学を批判していく。
 SFは、その点で、まさに反ヘーゲル的であり、そういった言説から考えられる余地がある。エンゲルスの著作はそれを教えてくれる。SFの愛好家は世界的な連帯、ネットワークを形成する傾向が強いが、社会主義者や共産主義者も同様である。「推理小説の愛好家はSFよりはるかに多いのに、彼等が世界規模で集まり何か一緒にやろうなどという話は聞いたことがない。SFに限って群れたがるのには明確な理由がある。推理小説の魅力を簡単に言えば”殺人事件の謎解きの楽しさ”であるのに対し、SFは”地球を狙う異星人の大軍をどう撃退するかに知恵を絞る……”という陽性コンセプトだから、皆が集まりたがるのだ」(野田昌宏『宇宙を空想してきた人々』)。この「異星人」をブルジョアに置き換えれば、ほぼマルクス主義者の信念と同じである。それに加えて、SFにしろ、マルクス主義にしろ、未来社会を扱う以上、政治・経済・文化を包括的に描かなければならない。世界観・歴史観を持っているため、その共有に駆られるからである。
 エンゲルスの目標は「革命」である。言うまでもなく、それが暴力的なものであるか、穏健なものであるかは、議論の余地がある。けれども、革命を目指す限り、著述スタイルはSFに近接せざるを得ない。
 SFは、ノースロップ・フライ(Northrop Frye)の『批評の解剖(Anatomy
of Criticism)』(一九五七)の分類に従うなら、「ロマンス(Romance)」に属している。このロマンスは近代小説以前に出現したジャンルであり、古典的である。始まりと終わりが円環構造でつながれ、すべては構造の中で結びついている。目的に適っていない理由で、必要もしくは必然性がないと判断された物事や出来事は排除できるため、作者の願望を投影しやすい。登場人物──人間とは限らないけれども──は精神的な奥行きの深さや襞を感じさせはしないが、計り知れない力を持ち、それによって世界を変える。彼らはペルソナのプロトタイプであって、実際にありうるかどうかは問題ではない。ロマンスの作者は現実の世界ではなく、それを揺り動かしたり、転覆させたりする目的で、すなわち革命を起こさせる目的で、作品を描く。
 「結果が始まりと同一であるのは、始まりが終わりであるからにほかならない」と『精神現象学』の序文で記すヘーゲルの弁証法はこうしたロマンスの特徴を体現している。彼の論理学では終わりが目的であって、すべてはそれに奉仕するものでしかない。マルクスはその弁証法をロマンスのような単純な構造からより発展させ、自分の願いではなく、現実世界をリアルに把握できるものにしている。一方、エンゲルスはマルクスほど意欲的に弁証法自体を変更してはいない。むしろ、エンゲルスの弁証法は極めてヘーゲル的である。しかし、ヘーゲルは、SFを思い起こさせる次のようなことを絶対に口にしない。
 最近では、特にヘッケルによって自然選択の観念が拡大され、種の変化は適応と遺伝との交互作用の結果として、把握されるようになっており、その際、適応はこの過程において変化をもたらす側面、遺伝はその保存する側面である、と説明されている。
 生命とは蛋白質の存在の仕方である。そして、この存在の仕方は、本質的には、蛋白質の化学成分が不断に自己更新を行うことにある。
 思考や意識は脳の産物である。
(『反デューリング論』)
 エンゲルスによるヘーゲル哲学の改変はマルクスよりもinvisibleである。一見したところでは、字句の変更にとどまっていると思われてしまう。彼の目標は革命であって、それを十分に生かすにはロマンスの構造を必要とする。ロマンスの持つ革命性を利用している。描かれているプロレタリアートやブルジョアジーが実在する階級とかけ離れているとしても、それを責めるべきではない。
 カール・マルクスは、控え目にも、未来についてほとんど言及していない。他方、エンゲルスは未来について大いに語る。「理性は希望がなければ花咲きえないし、希望は理性がなければ語りえない。両者はマルクス主義によって統一されている──他の学問には未来がないし、他の未来には学問がない」(エルンスト・ブロッホ『希望の原理』)。ヘーゲルによると、哲学的反省は形を与える、もしくは形を顕現する活動であり、「未来」はその及ばないカテゴリーに属している。「過去は現実として現在の中に保存されるが、未来はこれとは反対である──というより、未来は形を持たない。未来については、いかなる形を見てとることも不可能である」(ヘーゲル『歴史哲学』)。このナポレオン・ボナパルトの崇拝者は、そのため、未来について語ろうとはしない。「もし、ゲルマンの森が今も存在していたら、フランス革命は起こらなかっただろう。(略)かくてアメリカは未来の地である。いつの日か、南北アメリカが戦い、そのことに何らかの世界史的意義が見いだされるかもしれないが、予言をするのは哲学者の仕事ではない。歴史に関する限り、われわれは過去に起きたこと、現在あることを扱うべきである。一方、哲学においては、たんに過去に起きたことや、たんに起きるであろうことではなく、現在〈あり〉、永遠にあること、すなわち理性を扱う。それだけでも手にあまる課題だ」。しかし、エンゲルスは自らを「科学的社会主義」と呼ぶ。前述した通り、エンゲルスの生きていた時期、「科学」は上等な思弁だけでなく、怪しげな実学の傾向を示している。新しい「科学」は蒸気や電気といったinvisibleなものによって世界を変えている。「形を持たない」ものを対象にできる。この科学が台頭した時代では、その意義を馬エルならば、哲学者は未来も語り得る。
 物質が自己のうちから思考する脳を発展させてきたということは、たとえそうした発
展が生じているところではその一歩一歩が必然性によって条件づけられているにせよ、機械論にとっては純然たる偶然なのである。ところが真実は、思考する存在の発展にまで進歩してゆくことは物質の本性なのであって、だからそのための諸条件(かならずしもいたるところ、またいつでも同一だというわけではない)が存在する場合にはいつでもこういうことはかならず生じているのである。
(『自然弁証法』)
 エンゲルスは、『反デューリング論』において、科学的分析に従って、「宗教」や「国家」の死滅を予言する。しかし、それはあくまでも生産関係・生産様式が変化することによって、既存の権威・権力が対応できなくなるからである。「人に対する統治に代って、物の管理と生産過程の指揮とが現われる。国家は『廃止される』のではない。それは死滅するのである」(『反デューリング論』)。宗教にしても、権力によって禁止されて消えるのではなく、「自然死」を迎える。そもそも禁止は必ず反動かを招く。ただたんに願望を予言として語っているわけではない。
 エンゲルス以降、多くの哲学者・社会学者らが未来について語るようになっている。現在でも、イマニュエル・ウォーラステイン (Immanuel Wallerstein)やアントニオ・ネグリ=マイケル・ハート(Antonio Negri
& Michael Hardtt)がマルクス主義的理論をとり入れて、近未来について書いている。また、この傾向はマルクス主義に限定されない。マーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)は、メディアの観点から、来るべき世界を語っている。さらに、アメリカには、オズヴァルト・シュペングラー(Oswald Spengler)の末裔とも言うべき「フューチャリスト(Futurist)」の系譜があるが、ハーマン・カーン(Herman Kahn)は、『考えられないことを考える(Thinking about the Unthinkable )』(一九六二)において、「フューチャリスト」の役割を「まだつくられていない歴史に取組む」と定義している。ダニエル・ベル(Daniel Bell)やピーター・F・ドラッカー(Peter
Ferdinand Drucker)、バックミンスター・フラー(Richard Buckminster Fuller)、エズラ・F・ヴォーゲル(Ezra F. Vogel)、アルヴィン・トフラー(Alvin Toffler)らが代表的なフューチャリストである。彼らは、概して、体制順応的で、計画主義的傾向が強い。いささか短絡的な概念と大仰な歴史観、商業主義的なキャッチコピーに覆われたフューチャリストの胡散臭ささえ漂う書物は、ジャーナリスティックなテレビ番組は別として、B級性を無理やり消し去ろうとしているために、まともな学者のすることではないとアカデミズムから無視されることも少なくない。マルクス主義系にしても、非マルクス主義系にしても、彼らはいずれも過去と現在を歴史的に考察して位置づけ、未来を予想しているが、これはエンゲルスの手法であり、彼の物語のリメークである。ヴェルヌやウェルズがSFのプ杜とタイプとして継がれているように、エンゲルスは一つの理論家のスタイルを後世に残している。
 かつて未来を語ることは予言者の仕事であったが、科学がそれを民主化・自由化する。SFはその一つの現われである。ウェルズの『タイム・マシン』に時間に関する記述が見られるが、それは過去の幻想文学と違い、妥当かどうかは別にして、科学に基づいている。時空間も、SFにおいて、民主化・自由化されたというわけだ。けれども、この改革解放には、非常な計画性・管理性に帰着しかねない危険性がある。「今日の生産力を、ついに認識されたその本性にしたがって、このように取り扱うようになれば、社会的生産の無政府状態がなくなって、社会全体と各個人との欲望にしたがって生産が社会的・計画的に規制されるようになる」とエンゲルスは『空想から科学へ』において書いているが、ヴェルヌやウェルズを代表に、SFの近代文明への懐疑は社会主義思想と結びつくことも少なくない。ヴェルヌはサン=シモン主義に共鳴しているし、ウェルズはジョージ・バーナード・ショーやシドニーとベアトリスのウェップ夫妻らのフェビアン協会に所属している。しかしながら、「“民衆階級から生み出された文化”と“民衆に押しつけられた文化”とを同一視することは、(略)愚かなことだ」(カルロ・ギンズブルグ『チーズとうじ虫』序文)。SFが有効な時代には怪しげな発明家という姿をした科学者を通じて民衆の間から科学が生まれていたのであり、このジャンルは「民衆階級から生み出された文化」である。防毒マスクと信号機の発明で知られるギャレット・オーガスタス・モーガン(Garrett Augustus Morgan)は、アフリカ系アメリカ人だったために、生前、それにふさわしい賞賛を得られていない。多くの人々が彼の発明品の恩恵に預りながらも、一九六三年に亡くなった彼は、危なく、歴史から葬り去られかねなかったほどである。科学の一つの意義は世界の多重性・可能性を顕在化させ、既存の権威を再考させる点にある。「民主的であるためには科学的でなければならないはずである」(森毅『学校とテスト』)。
 「否定の否定としての発展」…「大麦の粒をとってみよう。幾兆のこういう大麦粒は、引き砕かれ、煮炊きされ、醸され、それから食われる。だが、もしこのような大麦の一粒が、それにとって正常な条件に出会えば、つまり好適な地面に落ちれば、熱と湿気との影響を受けて特有の変化がそれに起こる、つまり発芽する。麦粒はそれとして消滅し、否定され、それに代わって、その麦粒から生じた植物、麦粒の否定が現われる。だが、この植物の正常な生涯とはどういうものか?それは生長し、花をひらき、受精し、最後にふたたび大麦粒を生じる。そして、その大麦粒が熟するというと、たちまち茎は死滅し、今度はそれが否定される。こういう否定の否定による結果として、ふたたびはじめの大麦粒が得られるが、しかし、一粒ではなくて、一〇倍、二〇倍、三〇倍の数で得られる。
(『反デューリング論』)
 ブルジョアにとって、科学は生産向上のための道具であり、彼らはそれをプロレタリアートに押しつける。二〇世紀初頭のSFはそうした支配を諷刺するプロレタリア文学である。しかし、社会主義思想が明るい未来を提示するどころか、逆に、オルダス・ハクスリー(Aldus Huxley)の『すばらしい新世界(Brave
New World))』(一九三二)やジョージ・オーウェル(George Orwell)の『一九八四年(1984)』(一九四九)のように、全体主義や管理主義の暗い恐怖をもたらすだけだと警告する作品も登場する。
Someday they won't let you, now
you must agree
The times they are a-telling,
and the changing isn't free
You've read it in the tea
leaves, the tracks are on TV
Beware the savage jaw
Of 1984
They'll split your pretty
cranium, and fill it full of air
And tell that you're eighty,
but brother you won't care
You'll be shooting up anything
like tomorrow's wasn't there
Beware the savage jaw
Of 1984
(Come see, come see, remember
me?)
We played out an all night
movie role
You said it would last, but I
guess we've grown
In 1984 (who could ask for
more)
1984 (who could ask for more)
Now we can talk in confidence
Did you guess that we've been
done wrong
Lies jumped the queue to be
first in line
Such a shameless design
He thinks he's well screened
from the man at the top
It's a shame that his children
disagree
They cooly
decide to sell him down the line
Daddy's brainwashing time
He's a do do,
no no didn't hear it from me
He's a do do,
no no didn't hear it from me
She doesn't recall her blessed
childhood out of yore
When a unit was a figure not a
she
When lovers chose each other
seems the perk's are due
Another memo to screw
She's a do do,
no no didn't hear it from me
She's a do do,
no no didn't hear it from me
Can you wipe your nose my child
without them slotting in your file a photograph
Will you sleep in fear tonight
wake to find the scorching light of neighbour Jim
Come to, turn you in
But the do do,
no no, didn't hear it from me
Another do do,
no no, didn't hear it from me
Another do do,
no no, didn't hear it from me
Another do do,
no no, didn't hear from me
Come see, come see, remember
me?
We played out an all night
movie role
You said it would last, but I
guess we enrolled
In 1984 (who could ask for more)
1984 (who could ask for mor-or-or-or-ore)
(Mor-or-or-or-ore)
1984, 1984, 1984 (Mor-or-or-or-ore)
1984, 1984 (Mor-or-or-or-ore)
1984, 1984 (Mor-or-or-or-ore)
(David Bowie “1984”)
 さらに、ヘルベルト・マルクーゼ(Herbert Marcuse)は、一九六七年七月にベルリン自由大学で行った講演『ユートピアの終焉(Das Ende der Utopie)』において、エンゲルスの「空想から科学へ」の図式を批判している。カールの友人フレッドは「空想」が「科学」へと発展し、「科学的社会主義」が成立すると主張しているが、このカリフォルニア大学教授によると、社会はいかにあらねばならないのか、もしくは人間解放はどのようなものでなければならないのかという問題は、現段階でも、ユートピアであるから、それを前提にしなくては革命も社会主義もありえず、社会主義からユートピア性を排除したという点に社会主義の魅力喪失と凋落の原因がある。しかし、ハクスリーやオーウェル、マルクーゼは「科学」に関していささか誤解している。
 森毅は、『学校とテスト』において、科学について次のように述べている。
 現在のところ、「科学」ということばは、一方で「未来」社会を暗示する、SFまがいの憧れを持たす。その一方で、それが人間性を抑圧する何ものかであるかのような、怖れを感じさせる。これもまた、いくらかSFがかっていて、「未来学」のそれぞれバラ色の部分と黒い部分とに対応している。
 これは、どちらも誤っている。それは、人間が科学から疎外されていることの、ふたつの表現である。
 現在まだ、多くの人間に、科学は獲得されていない。せいぜい、科学の結果としての、知識の断片を、受動的に「与えられ」ているだけだ。科学の獲得とは、本来的に受動的なものではないので、それではニセ科学のニセ知育にならざるをえない。
 その結果、「与えるもの」である、科学者もしくはニセ科学者にたいして、一面では憧れ、一面では怖れの感情を抱く。そして、憧れの象徴としての意味しかないニセ科学者になったり、あるいは、それを人間性の抑圧として嫌悪したりする。
 事実は、科学からの疎外が、人間性の回復を不可能にしているのであって、科学をみずから獲得していくことこそが、人間性を回復する唯一の道であるのだが。デカルト流にいうと、何びとといえども、かわりにわかってくれる者はいないので、自分でわかるよりないわけだ。
 エンゲルスは、「科学をみずから獲得」するために、未来を語っている。弁証法は自然にも適用されるという発想をジョルジ・ルカーチ(György
Lukács)は斥けているが、彼は、『自然弁証法』において、科学を援用し、弁証法を自然現象からも見出している。彼は量から質への弁証法的変化の例として脂肪酸(CnHmCOOH)の系列をあげている。nが0の場合、蟻酸(HCOOH)、nが1の場合、酢酸(CH3COOH)、nが2の場合、プロピオン酸(CH3CH2COOH)になるように、量的変化が化学的性質も変化していく。こうした比喩によって量と質は弁証法的関係を説明することをヘーゲルはしない。科学が未来を固定するわけではない。現代の科学は、ニュートン力学と違い、均質性に基づき、法則性に則った認識ではない。産業革命を推進した科学は熱力学や電磁気学であり、それは統計力学や量子力学を生み出し、非線形の科学へと連なる。なるほど、古典的SFはエクストラポレーション的な思考である。これはある変域内のいくつかの変数値に対する関数値を推定する数学の手法である。既知の科学や資料、条件、知識、情報に基づいて、未来を推測し、古典的作家たちは作品を制作している。そこでも、重要なのは変数の存在であって、それによって、SFは多様な可能世界を描き得る。しかも、初期値敏感性があるので、どれだけ初期値がわかっていても、非線形現象の予想は不可能である。非線形現象は短期的には予測可能でも、長期的には予測はできない。科学が線形だけを扱っていた時代はすでに過ぎ去っている。今日のSF作家は、ウィリアム・ギブソン(William Gibson)の『ニューロマンサー(Neuromancer)』(一九八四)を代表に、アルゴリズムによってコンピューター・シミュレーションさせるように、作品を書いている。彼らには、近代の小説家が持っていた意図やテーマも二次的であって、いかに方法を表現するかに関心が向けられている。SF作家は、エンゲルス同様、「科学をみずから獲得」している。「科学といっても、ようするに、『わからないことをわかるようにすること』であって、それはつねに進歩している。進歩するということは、先へ伸びるだけではなく、あらゆる部分、たとえば小学校教育でも、『わかる』ことがより容易になる、という意味でも進歩しているのだ」(森毅『学校とテスト』)。
 形式論理学にしても、なによりもまず、新しい成果を見いだすための、既知のものから未知のものへと前進するための方法であるのだが、弁証法もまた同じであり、ただはるかに高い意味でそうなのである。そのうえ、弁証法は、形式論理学の狭い視野を突破するものなので、一つのいっそう包括的な世界観の萌芽を含んでいる。数学においてもこれと同じ関係がある。初等数学、すなわち不変量の数学は、すくなくとも大体において、形式論理額の枠内で動いている。微積分学をその最も重要な部分とする変量の数学は、本質上、数学的諸関係に弁証法を適用したものにほかならない。ここでは、この方法を新しい研究諸分野にさまざまな仕方で適用することにくらべて、たんなる証明はまったく従になっている。しかし、微分学における第一番目の証明をはじめとして、高等数学のほとんどすべての証明は、初等数学の立場からすれば、厳密にいうと誤りである。この場合のように、弁証法の分野でえられた結果を形式論理学を用いて証明しようとすれば、そうなるよりほかはないのである。
(『反デューリング論』)
 それに、科学技術の発展は計画通りに生まれたものと偶然の産物の二つある。後者は「セレンディピティ(Serendipity)」と呼ばれ、初期の目的としては失敗であるが、新たな成功が生まれたものと目的通りの成功にさらに別の可能性が隠れているものとにわかれる。医薬品や新素材の開発にセレンディピティは欠かせない。エンゲルスと社会主義やマルクとの出会いも同様だろう。「もし科学者になろうとするならば、今までの科学者と違う人間になる必要があるわけで、さもなければ祖述者もしくは追随者を作るだけである。つまり、科学性とは、本質的に企画性の正反対なのだ」(森毅『学校とテスト』)。「どういう事物についても、そこから発展が生まれてくるような、それ独特の否定の仕方がある」(『反デューリング論』)。
 どの生物体も、各瞬間に同一のものであってまた同一のものではない。それは各瞬間に、外から供給された物質を消化して、他の物質を排泄する.各瞬間に、その身体の細胞が死滅して、新しい細胞が形成される.おそかれはやかれ、ある時間ののちには、この身体の物質はまったく更新されて、他の物質原子によって置きかえられる。だkら、どの生物体も、つねに同一のものであって、しかも別のものなのである。さらにいっそう詳しく考察すると、肯定と否定というような対立の両極は、対立していると同時に互いに分離することのできないものであり、まったく対立しているにもかかわらず、相互に浸透しあっているということがわかる。同様に、原因と結果とは、これを個々の場合に適用するときにだけそのままあてはまる観念であって、個々の場合を世界全体としての全般的連関のなかで考察するやいなや、両者は重なり合い、普遍的交互作用の観念に解消してしまうのであって、そこでは原因と結果とはたえずその位置を取り替え、いま、またはここでは結果であったものが、あちら、また後では原因になり、またその逆にもなるということがわかるのである。
(『空想から科学へ』)
 エンゲルスの作品には予言と諷刺に満ちているが、その予言が的中したかどうかは問題ではない。初めて未来社会を描き、そのイメージを人々に浸透させたことが重要である。先行する思想の概観を説明して、うまく要約し、流れに位置づけるヘーゲル流の弁証法的歴史観に、当時流行の政治や経済、自然科学の用語を使って、マルクス以上に明快な文体で記す。反面、当然あるべき留保が付けられていないことも多く、ルイ・アルチュセールのように、好意的であったとしても、慎重な読者を失望させるケースさえある。エンゲルスの提示した図式は、その後、楽観的なものにせよ悲観的にせよ、理論的・実践的なフォーマットに使われていく。社会主義社会や共産主義社会は資本主義社会の外部にあるわけではない。内在している。彼はそうした異種の時空間を顕在化させて見せ、この世界の権利上の存立可能性を問う。これはSFの方法論そのものであろう。彼は人々に自分自身の可能性に対する断続的な認識、集団とそのプロジェクト、未知なるものに対する自由化・民主化を訴えている。資本主義社会と異なった多重の可能世界を示した点で、エンゲルスはライプニッツ的である。ライプニッツを援用してエンゲルスを読解することははるかに意義深い。エンゲルスのサイエンス・フィクションは思考の拡大をさせるある種のメタ哲学、観点の複数化である。科学的社会主義がSFであるなら、それはこの世界に限定されはしない。地球の外でもあり得る。ピエール・マシュレ(Pierre Machereyは「ヘーゲルかスピノザか(Hegel ou Spinoza)」と言ったが、SFは「エンゲルスかライプニッツか(Engels ou
Leibniz)」を具現化している。「必然の王国から自由の王国へ!」
 人生がどうとか言いますが、生きていくということは、どうせ現実と夢とをクロスオーバーしながらいくわけでしょう。ぼくが言う夢というのは、何かになりうたいという夢じゃなくて、虚構=フィクションのことです。フィクションを読むことで読む人間の考えが広がればいいんです。それはやはり自分本位なのかもしれません。ぼくは見る世界が拡がればいいんで、それがはっきり形をとった思想になるかどうかはわからないですけれども、世界の見方と言うか、一種メタ思想みたいなものが、小説にはある。小説というものは、そういうものではないでしょうか。
(森毅『ゆきあたりばったり文学談義』)
3 Science is stranger than fiction
 個々の人間の場合に、その人を行為させるためにはその人の行為の推進力がすべてその頭脳を通過して意志の動機に変わらなければならないように、市民社会の必要も法律の形で一般的な効力を得るためには、すべて国家の意思を通過しなければならない。これはことがらの形式的な側面で、わかりきったことである。問題になるのは、この単に形式的な意志が―個人のものにせよ、国家のものにせよ―どんな内容をもっているのか、またどこからこの内容がくるのか、なぜまさにこれが意欲されて他のものが意欲されないのか、ということだけである。このことを調べてみると、現代の歴史では国家の意思が、大体において、市民社会の必要・欲求の変化に、この階級が優勢であるかあの階級が優勢であるかということに、…規定されていることがわかる。
(『フォエルバッハ論』))
 アメリカ航空宇宙局(NASA)は、一九七七年九月五日、無人惑星探査機ボイジャー1号 (Voyager 1)を打ち上げ、次いで、同年八月二〇日、ボイジャー2号(Voyager 2)を宇宙に送り出す。ボイジャー計画(Voyager Program)の主要目的は太陽系の惑星ならびにその衛星の観測であるが(http://voyager.jpl.nasa.gov/)、ボイジャーには金メッキされたレコード、すなわちゴールデン・レコード(Golden Record)が搭載されている(http://voyager.jpl.nasa.gov/spacecraft/goldenrec.html)。以下に記した地球上のさまざまな光景の写真、音、音楽、五五種類の言語による挨拶が収録され、ボイジャーが太陽系を離れて他の恒星系へと向かう以上、地球外知的生命体によって発見された際、彼らから礼儀知らずと思われたいために積まれている。
Scenes From Earth 
Calibration circle, Jon Lomberg 
Solar location map, Frank Drake
Mathematical definitions, Frank
Drake 
Physical unit definitions,
Frank Drake 
Solar system parameters, Frank
Drake 
Solar system parameters, Frank
Drake 
The Sun, Hale observatories 
Solar spectrum, National
Astronomy and 
Mercury, NASA 
Mars, NASA 
Jupiter, NASA 
Earth, NASA 
Chemical definitions, Frank
Drake 
DNA Structure, Jon Lomberg 
DNA Structure magnified, light
hit, Jon Lomberg 
Cells and cell division, Turtox/Cambosco 
Anatomy 1, World Book 
Anatomy 2, World Book 
Anatomy 3, World Book 
Anatomy 4, World Book 
Anatomy 5, World Book 
Anatomy 6, World Book 
Anatomy 7, World Book 
Anatomy 8, World Book 
Human sex organs, Sinauer Associates, Inc. 
Diagram of conception, Jon Lomberg 
Conception , Albert Bonniers; Forlag, 
Fertilized ovum, Albert Bonniers; Forlag, 
Fetus diagram, Jon Lomberg 
Fetus, Dr. Frank Allan 
Diagram of male and female, Jon
Lomberg 
Birth, Wayne Miller 
Nursing mother, UN 
Father and daughter (
Group of children, Ruby Mera, UNICEF 
Diagram of family ages, Jon Lomberg 
Family portrait, Nina Leen, Time, Inc. 
Diagram of continental drift,
Jon Lomberg 
Structure of Earth, Jon Lomberg 
Seashore, Dick Smith 
Sand dunes, George Mobley 
Monument Valley, Shostal Associates, Inc. 
Leaf, Arthur Herrick 
Fallen leaves, Jodi Cobb 
Snowflake over Sequoia, Josef Muench, R. Sisson 
Tree with daffodils, Gardens Winterthur, 
Flying insect with flowers,
Borne on the Wind, Stephen Dalton 
Diagram of vertebrate
evolution, Jon Lomberg 
Seashell (Xancidae),
Harry N. Abrams, Inc. 
Dolphins, Thomas Nebbia 
School of fish, David Doubilet 
Tree toad, Dave Wickstrom 
Crocodile, Peter Beard 
Eagle, Donona,
Taplinger Publishing Co. 
Waterhole, South African
Tourist Corp. 
Jane Goodall
and chimps, Vanne Morris-Goodall
Sketch of bushmen, Jon Lomberg 
Bushmen hunters, R. Farbman, Time, Inc. 
Man from 
Dancer from 
Andean girls, Joseph Scherschel 
Elephant, Peter Kunstadter 
Old man with beard and glasses
(
Old man with dog and flowers,
Bruce Baumann 
Mountain climber, Gaston Rebuffat 
Gymnast, Philip Leonian, Sports Illustrated 
Sprinters (Valeri
Borzov of the U.S.S.R. in lead), History of the
Olympics, Picturepoint, 
Schoolroom, UN 
Children with globe, UN 
Cotton harvest, Howell Walker 
Grape picker, David Moore 
Supermarket, NAIC 
Underwater scene with diver and
fish, Jerry Greenberg 
Fishing boat with nets, UN 
Cooking fish, Cooking of Spain
and 
Chinese dinner party, Time-Life
Books 
Demonstration of licking,
eating and drinking, NAIC 
House construction (African),
UN 
Construction scene (Amish
country), William Albert Allard 
House (
House (
Modern house (
House interior with artist and
fire, Jim Amos 
Taj Mahal,
David Carroll 
English city (
UN Building Day, UN 
UN Building Night, UN 
Artisan with drill, Frank
Hewlett 
Factory interior, Fred Ward 
Museum, David Cupp 
X-ray of hand, NAIC 
Woman with microscope, UN 
Street scene, 
Rush hour traffic, 
Modern highway (
Train, Gordon Gahan 
Airplane in flight, Frank Drake
Airport (
Antarctic Expedition, Great
Adventures with the National Geographic National Geographic 
Radio telescope (
Radio telescope (
Page of book (
Astronaut in space, NASA 
Titan Centaur launch, NASA 
Sunset with birds, David Harvey
String Quartet (Quartetto Italiano), Phillips
Recordings 
Violin with music score
(Cavatina), NAIC 
   
Greetings From Earth 
Sumerian, Arabic, Urdu, Italian,
Ila (Zambia), Akkadian,
Romanian, Hindi, Nguni, Nyanja,
Hittite, French, Vietnamese, Sotho, Swedish, Hebrew, Burmese, Sinhalese  Wu, Ukrainian, Aramaic, Spanish, Greek,
Korean, Persian, English, Indonesian, Latin, Armenian, Serbian, Portuguese, Kechua, Japanese, Polish, Luganda,
Cantonese, Dutch, Punjabi, Nepali, Amoy (Min dialect), Russian, German, Turkish,
Mandarin Chinese, Marathi, Thai, Bengali, Welsh, Gujarati, Kannada, Telugu,
Oriya, Hungarian, Czech, Rajasthani
 
Music
Bach, 
Java, court gamelan,
"Kinds of Flowers," recorded by Robert Brown. 
Mexico, "El Cascabel,"
performed by Lorenzo Barcelata and the Mariachi M騙ico. 
"Johnny B. Goode," written and performed by Chuck Berry. 
Bach, "Gavotte en rondeaux" from the Partita No. 3 in E major for
Violin, performed by Arthur Grumiaux. 
Mozart, The Magic Flute, Queen
of the Night aria, no. 14. Edda Moser, soprano.
Bavarian State Opera, 
Georgian 
"Melancholy Blues,"
performed by Louis Armstrong and his Hot Seven. 
Azerbaijan S.S.R., bagpipes,
recorded by Radio Moscow. 
Stravinsky, Rite of Spring,
Sacrificial Dance, Columbia Symphony Orchestra, Igor Stravinsky, conductor. 
Bach, The Well-Tempered
Clavier, Book 2, Prelude and Fugue in C, No.1. Glenn Gould, piano. 
Beethoven, Fifth Symphony,
First Movement, the Philharmonia Orchestra, Otto Klemperer, conductor. 
Navajo Indians, Night Chant,
recorded by Willard Rhodes. 0:57 
Holborne, Paueans,
Galliards, Almains and Other Short Aeirs, "The Fairie
Round," performed by David Munrow and the Early
Music Consort of London. 
"Dark Was the Night,"
written and performed by Blind Willie Johnson. 
Beethoven, String Quartet No.
13 in B flat, Opus 130, Cavatina, performed by Budapest String Quartet. 
  
 Sounds of Earth 
Music of The Spheres
Volcanoes, Earthquake, Thunder 
Mud Pots 
Wind, Rain, Surf
Crickets, Frogs
Birds, Hyena, Elephant 
Chimpanzee
Wild Dog
Footsteps, Heartbeat, 
Laughter 
Fire, Speech
The First Tools
Tame Dog 
Herding Sheep, Blacksmith,
Sawing
Tractor, Riveter
Morse Code, Ships 
Horse and Cart
Train
Tractor, Bus, Auto 
F-111 Flyby, Saturn 5 Lift-off
Kiss, Mother and Child
Life Signs, Pulsar 
 
 いずれのボイジャーも現在も稼働中であり、ボイジャー1号は地球から最も遠くにある人工物となっている。「社会の歴史の場合には、行為している人々は,すべて意識を持ち、思慮や熱情を持って行動し、一定の目的を目指して努力している人間である。意識的な意図なしには,意欲された目標なしには、何事も起こらない」(『フォイエルバッハ論』)。
The small boy on the country
road looked up and screamed.
“Look, Mom, look! A falling
star!”
The blazing white star fell
down the sky of dusk in 
“Make a wish”, said his mother.
“Make a wish”.
(Ray Bradbury "The Illustrated Man")
 "La SF, c'est une
nouvelle mystique...c'est la résurrection
de la poésie épique : l'homme et son dépassement par lui même, le héros
et ses exploits, la lutte
avec l'Inconnu(SF、それは新たな神秘…叙事詩の復活、自身の限界への人間の断続的な超越、英雄とその偉業、未知なるものに対する闘争)"(Boris Vian).
Ground control to Major Tom
Ground control to Major Tom
Take your protein pills and put
your helmet on
Ten nine eight seven six five
four three two one
Ground control to Major Tom
Commencing countdown, engines
on
Check ignition and may God's
love be with you - lift off
This is ground control to Major
Tom
You've really made the grade
And the papers want to know who
shot you where
Now it's time to leave the
capsule, if you dare
This is Major Tom to ground
control
I'm stepping through the door
And I'm floating in a mostly
peculiar way
And the stars look very
different today
For here am I sitting in a tin
can far above the world
Planet Earth is blue and
there's nothing I can do
Though I'm past one hundred
thousand miles
I'm feeling very still
And I think my spaceship knows
which way to go
Tell my wife I love her very
much, she knows
Ground control to Major Tom
Your circuits dead, there's
something wrong
Can you hear me, Major Tom?
Can you hear me, Major Tom?
Can you hear me, Major Tom? Can
you hear
Here am I floating round my tin
can
Far above the Moon
Planet Earth is blue and
there's nothing I can do
(David
Bowie “Space Oddity”)
〈了〉